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話しすぎてしまう。相手の話す量に対してという意味でもそうだし、話すべき適正な量と比較してという意味でもそうだ。もっと話を聞けば良かった、そうしたかったはずだったのにといつもいつも思って、思っている。

今日はインターネットの友人に勧めてもらったミュージカルを見に行った。内容は、ある種前時代的でもあったし露悪趣味的でもあってあまり好きではなかったけれど、衆愚的なものを描くことを徹底している作品なんだなということはとても思った。出てくる人間が全員等しく愚かで、それが良かった。座席の関係かスピーカーとの相性なのか台詞が聞き取れないこともたびたびあったけれど、それでも話の流れがわかる、音と歌声の揺らぎと体の動きで伝達が成功しているということにしみじみとしてしまった。聞き取れなくても全く問題がなかった。そういう優しさと広さがあるジャンルなのかもしれないと思う。例えば外国語のミュージカルを見たとしても、ある程度何かについていけることがあるのではないか、そういう希望を持った。それから照明が終始格好良かった。照明ってすごいなとかなりの回数思った。それはそれとして今回取ったのは3階席のチケットで、入るなり傾斜が急だったのでかなり身の危険を感じた。最前列の柵も低いし、少し間違えたら死んでしまうのではないか。不安になるだけで、流石にそんなことは起こらない角度なのだろうか。誰一人転落しなかったから、案外大丈夫なのかもしれない。

その後電車に乗って稽古に行った。自分のモードをコントロールできなくなってきたと感じる。開始前と、シーンとシーンの間と、終わってからで、元々自分はどうあったっけということが思い出せなくなっていて、急に元気な振る舞いに偏ったりその反対に振れたりを繰り返した。それってこういうことですか、を繰り返して、私はそこにある言葉を並列に増殖させようとする発言が多い傾向にあることに気がついた。たまに翻訳に成功して誰かの理解に紐づいたりすると意味があったことになるけれど、基本的に会話を前に進めることから逃げているので無責任な行動でもあるのだろうということを、今日初めて思ったので日記に書いておく。とにかくその場に色々な角度の言葉を増やそうとするときに、やはり思い出すのは学生劇団時代のことで、苦痛だった色々な場所が後から私に水を差し出すようなとき、なんだか心の置きどころがなくなってしまう。相対的にどうとかはわからないけれど、それなりに言葉を用いる集団だったのかもしれないというようなことを思った。内容と関係のあることで行くと、一度振る舞ってみて、その反省を帰りの電車でして、次に違う振る舞いに変えるような、そこまで時間をかける必要を感じてしまうような、現実の時間軸が私のやり方に作用しているようなことを思って、人のふりをするためには人がするのと同じ時間が必要なのかもしれないということを考えたりした。本当の俳優はそれを超短期スパンで回しているのだろうと思うとそれってとんでもないな。日々のコミュニケーションの軌道修正もめちゃくちゃ早いんだろうか。内容とは関係のないところで行くと、なんとなく、他の人と話ができるようになってきた気がして嬉しかった。

沈丁花の匂いがした。思えばこの土日はあまり緊張せずに過ごせていた。明日からもそうであると良いと思った。文がめちゃくちゃだ。日記だから許す。日記だから許す日記しか書いてないから治らない。いつまでも。