0503

何かの知らせを聞いたとき、お前は傷つかねばならないのだぞ、という声がどこからともなく聞こえてきて戸惑い、そのことに少し傷つく。ただ喜んではいけないのですか。

神様の言葉を使えるときがある。神様の言葉というのは、人ひとりの体ではその発話の重さを背負えない言葉のことだ。例えばもう少し私とあなたが親密で、「私」の言葉であることを前提としてあなたがこれを聞くならば決して言えないような、ある意味無責任な相手の肯定のことだ。それを使えるとき私は、私であることよりもその場やその場に存在する声のひとつであることの役割を大きく優先する。誰だってそういうことはよくあるに違いないが、これは人間の言葉ではないなと思いながら話している。そのように話すことで私の神様の形を都合よく造形してもいる。相手に言いたいと思って絞り出した私のスケールのずれた言葉と神様の言葉は多分外側からは区別はつかないだろう。私には誰のこともわからない。逆に全部が神様の言葉に見えている人もいるのかもしれない。今日は天気が良くて、風が気持ちよくて、白くて広い道がよく見えてしまった。

それでも歩けたので、予約していた通り発声練習に行って、少し長めに時間をとっていたので台詞を読んだりもする。思ったより進められなくて焦る。それから電車に乗って、演劇を見に行った。制作過程に重心があるような発表で、上演中は少し眠くなった時間もあったけれど、やっていることやアフタートークで話していたことを含めてゆっくり考えたいことのように思った。演劇が過程になっていく道筋があったとして、それはもしかしてかなり現代的な形式を取りつつ現代のある一面と向かい合うようなことになっていくんじゃないかみたいなことを思う。具体的には、親しみ重視で過程から商品化されているSNS時代のアイドル文化のことを思い出したりしている。私は演劇を見るときに何を見ているのだろう、この人たちは台詞を読みながら何を見ているのだろう、そういうことがぐるぐると頭を回った。帰り道、白い道の輪郭が少しだけ崩れていた。