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部屋にまたひとつ素敵なものが増えて、また少し私は惨めになる。

3時間くらい公園にいた。遊具がないから小さいころはほとんど来なかった場所で、ずっとベンチに座っていた。今日は晴れと曇りがくるくる入れ替わり、公園に訪れるものはみんな日射しできらきらしていた。発光する子どもの叫び声が発光、発光する夫婦の笑い声も発光、発光する若者が土を踏む音だって発光して、ぜんぶが嘘みたいに光っていた、意味のないものはこんなに綺麗で、悲しい。

絵葉書の絵は写真、コンビニで印刷。すべてが一方通行になるように選んだ住所を書き、郵便番号を調べてしるし、宛名を記載。他人のフルネームをペンで書くことなんてほとんどないから、それだけで逸脱だ。裏返して、自分で作った余白に何を飾るか、ざらついた画像をいくら眺めても思いつかない。今日の晩御飯。いちにち三回食事をしていること。8時に起きるのが難しいこと。しるすって言葉の綺麗であることがこっそり好きだった小学生時代だったかもしれない。切手、貼ってあることよりも買ったことの方に意味があって、つまり郵便屋さんへの好意を示すためには切手を買うまででなんと完結してしまうのだという何らかの驚嘆。書きすぎても野暮であるし、そもそも投函してしまうことは届けられることへの強めの予期であり欲望であって、幾ばくかの下品さがまとわりついていやしないだろうか。体調を崩した友人をたしかに助けに行けないとき、ようやく壁としての距離を理解する。こんなことでしか、距離を認識することができない想像力の貧しさ。