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夢にある女が出てきた。薄曇りの真っ白い街で急に初対面として出会って、いろいろあって、別れの予感になんだかもう二度と会えないような気がして。目が覚めたとき、あれはかつての先輩だったのだという確信がするりとして沸いた。彼女と話せたことすらほとんどないのに。不思議だ。そういえば、中学のときの部活の先輩、あんなに好きだったのに、今はもうほとんど記録としてしかその感情を思い出すことができない。

 

しばらく耳にしておらず、名前も忘れていたような曲が、ふわっと浮かんで頭を埋め尽くしていくようなことがある。朝起きて、ひさしぶりに相対性理論のたまたまニュータウンが頭の中を響いて、その曲があったことを思い出す。去年の今頃もきいていたのかもしれない。蒸し暑くなり始めた駅のホームで泣きそうになりながらそれをきいていた、ことばの意味は大切ではない、2DKsessionのあの感じが特に好きで、2番目のイントロに展開するところと、残り1分くらいの何か強烈な質量の中で浮かんでいくようなところでいつも胸を詰まらせてしまう。

 

川上未映子の『発光地帯』を読んでいる。読み始めて1ページ目で買ってよかったと思った。読みさしになったままの同じ著者のべつのエッセイよりもずっと好きだ。何の違いだろう。タイトルに惑わされただけの心地じゃないように思える。読者層の想定が違うのかもしれない。この思いつきによれば、私は発光地帯がわの人間。ちょっと嬉しくなる。こうした些細な思い込みで幸せになれる日があったっていいじゃんね。読んでいるうちに言葉が渦巻いて気持ちがぐるぐるとして喚起される、知覚のしかたのひとつひとつがきれいで、こういう言葉にいつまでも触れていたいなと思う。実は彼女の言葉に初めて触れたときそれは文字ではなく音としてあった、と思っていたのだけれど、やっぱり最初は文字で出会っていた、きっとチケットと一緒に渡されたっけ、薄くてきれいな紙の上で、全く知らない言葉として。

 

当たり前に人が集まっている様子が過去のものとして放映されるのを目にしたとき、感染とか何とかのことを考えるよりも先に妙な嫌悪感を抱いた、抱いて一瞬後にそこにもはや生理的とさえ感じられる次元に嫌悪感があることに驚き、ぞっとしてしまった。こんなにも人の感性はふたしかで脆いのだということ。どちらが正常でどちらが異常であるのかとは関係なしに、生理的な感覚があっさりと覆ってしまうこと、それ自体の恐ろしさ。絶対なんてないと思っていたつもりだったけれど、それでも普段そこにものさしがあると思わないところがくるりと入れ替わって、ときとしてその回転が素敵な方へ連れていってくれることもありはしても、それはけっこう怖いことだと思う。方位磁針の効かない、樹海のことを連想する。感じる何もかもがあっさりと変わってしまうかもしれない、何が正しいことかなんてきっと一生わからないけれど、守りたいものさしがないわけじゃない、それすらも変わってしまうのだろうか。

 

さいきん、母がGoogleフォトでずっと昔の写真を共有してくれる。そのこと自体は幸せなことなのだけれど、なんとなくいろいろに悲しい気持ちになったりもして、たとえば具体的に何とはおもわずただ失ってしまった時間の質量が目に見えるようなことで悲しくなる。それでいえば、これからもさらにたくさんのものを失い続けていくのだけれど。そして失うことは何も悪いことではないのだけれど。

 

今日は説明会が3連続。部屋でスーツを着るのも暑いし、かといって時たまふと喋らされたりすることもあるからドアを開けるのもなあ、どちらにせよ聞かれてしまう壁の薄さだけれど、聞かれてしまうほどに私に対して向けられる関心なんてないはずなのだけれど、それでも気持ちの問題はけっこう大事で、というか私に降りかかる問題の大半は気持ちの問題。気持ちの問題であるならば体の問題よりはどうにでもなるだろうというのが古来とまでは言わなくともまあ母親父親世代からのならわしであるので私もそうやって教えられてきたけれど、でも問題は問題なのだから、ちゃんと問題として見てよって思わないでもない。もう両親に見せるものでもないし、見てほしいかといえば全然そんなことはないのだけど。みたいなことをつらつらと、説明会の合間に現実逃避として書き殴っていたらこんなにも長ったらしい日記でもない何かになってしまった。話題ごとにもうちょっと丁寧に書いてみたりした方が楽しいのかな。