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睫毛を上げた顔面が造形的に「可愛い」かは正直人によるなと思っているのだけど、睫毛が上がっていることが必然的に意味する「この人は可愛いをしようとしており、相応の手間ないしお金あるいはその両方をかけている」という想像により、その心性を「可愛い」と思うことはある。電車とかでよく思う。

睫毛や眉毛など、やった方が良いのではないかと思って金額を調べたことも何回かある。それでいつも、両方整えるのにかかるお金で演劇何本見られるんだと不思議に思うところに到着する。みんな演劇を見ないで身なりを整えていたのか。というかいつの間にこんな高額出費が嗜みみたいになっていたんだろう。何かに踊らされてる感じがする。ほどほどに付き合いたい。金銭的に余裕があるときに一度くらい経験しても良いかもしれない。とか言いつつ舞台に行ってしまうんだろうな。

私にとって演劇が何だったのか、多分向こう10年くらいはまだうっすらと考え続けるような気がする。行こうか迷っている演劇について考えられそうな会の見学に行ってきた。少し台本を読ませてもらったりもした。演技について何かを言おうとするときの人の言葉に、個別と不変という言葉を思い出したりする。いつも個別の事情に不変の問題が持たれてそれぞれの言葉が運用されて、それは場所以外で共有されるものがないことで、一つの技術としてはやはりとても「遅い」ものであるなということを思ったりした。人が話しているのを意識的に聞こうとしてみる。意識的に聞くとは結局なんなのだろうと考えながら。

演技をすることについて、なんとなく昔より、学生劇団時代よりも何かが向上しているような感じはしていて、少なくとも、本当に初めての人と同じくらいには何かを見て言葉にしたり、それを外に出そうとしてみたりということはできるくらいにはなってきたような気がしていて、その向上が実在していたとしてもスローペースすぎて何にも追いつけなかったから行き場はないのだけれど、じゃあそれをもっと前の段階で加速できなかったのかということについては無理だったのではないかというあたりで落ち着きそうだ。あんなに人を憎んだり妬んだりいらない腐心で心を折ったり、しなくてもよかったけど、したから自分にあり得る感情であり人ごとではないということがわかったのだし。

もうしばらくこの文体から抜けられない気がしている。困った。