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嫌な夢を見た。本当に嫌な夢だった。

 

インターネットに転がっているある日記を過去へ読み進めているのだが、ほとんど毎日更新されているにもかかわらず各記事2000字くらいは体感であって、よくもまあ毎日こんなに多くのことを自覚できるなと思う。私の日記はだいたい300字が体感のちゃんと書いた平準で、とはいえ10文字足らずでやめる日もある。500を超えると今日はたくさん書いたなと思うし800を超えるとなんでだ?と妙な気分になる。もちろん文字数と内容量が相関しているわけではないのだけど(同じ視点から切り替えない限り、文字数が増えるほど1文字あたりの質量そのものは小さくなっていく気がする)、それはそれとして単純な物量として発揮する威力が文字数にはあると思う。

とはいえ、インターネットにごみを流してやったぞという気持ちは、文字数よりもむしろ件数に宿る。この日記にはいまの時点でおおよそ850強の記事があるらしく、それぞれどれくらいの分量があるのかもよくわからないにもかかわらず、その記事の数を思うだけで、ささやかながらごみの山を名乗れそうな量にはなってきた気がして変に誇らしい気分にもなる。

 

何かに対して十分償ったと言えるラインはどこにあり、それは何をもって決定されるのだろうか。ある意味で法律がそれを担ってもいるのだが、法律にも限界はあり適切に運用されるかについてさらに別の問題があり、そもそも法律の枠外で議論される日常レベルの過ちというものも多い。まだ足りていないと断言するのに薄寒さと怒りに似た感情を抱いた。それは多分、価値の確定が早すぎることへの抵抗だと思う。値するとは何なのか、等式の両辺でどのような処理が行われているのか、個別具体の検算の上で声を発するならばそのような形での断言はあり得ないはずだ、というのも私の思い込みなのかもしれないが、反射的に抵抗感を抱いてしまう。断言自体をあり得ないとしているわけではない。繰り返し考えてきたことについては演算の回路がだいぶ開拓されているからだし、誰が何を繰り返し考えているかなんて知るよしもないことだからだ。

 

YouTubeの広告が私をある程度若い世代の女性と判定し始めたらしい。少し前までは素敵な女性に出会えると謳うマッチングアプリの広告が主で、この2、3ヶ月はそれに音楽系のプラグインの広告が幅を利かせていくような勢力図の具合であったが、このところ男性アイドル育成ゲームの広告を見る機会が増えたように思う。あまりあの手のゲーム(あるいはプロモーション)に親近感は持てないのだけれど、いわゆる単純接触効果的にだんだん抵抗が薄れていったりするものなのだろうか。実はソシャゲをひとつだけやっているのだが、生活と携帯の残容量的にこれ以上増やす気はない。もし無限のキャパシティがあったらやるのかというと、それはそれで特に大した理由もないけどやらない気もする。

 

今日の日記は約1200文字でした。なんでだ?