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小さいチョコレートを買わないでオフィスに向かう。お守りなしでも大丈夫でいられるかの簡単な実験、あるいは試行として。

結局普通に生殖をするべきだとか、小学校の教室の中心にいた人たちのような進行こそが全てでそれをどうせお前も望むようになるのだいやなるべきだみたいな圧を感じて最近Twitterがだるい。(そういうことに共振する人が周りに増えておりそのために目に入りやすくなっているのかもしれない。アカウントによってはほぼ見ない意見でもある)自分で自分の首を絞めて何になる?敢えて縛られにいくしかない惨めさを古びた権威でべきだべきだと開き直って正当化することは私の直感に反することだ。距離を置きたい。私は私の前がわからないけれど、いつか私の前を見つけた時は、あるいは誰かの前が明確に自分にとっての前とは異なると直感された時には、私の思う前は自分だけの前であることに自覚的でありたい。学校で教えられることは東西南北の存在だけだ。

職場で先端技術の話になった。ついていけない個体は社会に必要なくなっていくのだという。それが「現実的」な態度だとして、それそのものはどうなのかと考えていなければならないのではないか。なぜ、そのイコールを当たり前のように受け入れている態度でいられるのか。仕方がないとして、仕方がないという態度は必要ではないのか。このような態度を取らざるを得ない立場であるというところまでは理解ができる、できるけれど、飲み込まれてしまってはいけないのではないか。誰も立ち位置を持たないことはできないのではないか。あるいは本気でそう思っているのか。だったらそもそも人間なんていらなくないか。色々な困惑と怒りに似たものがある。ひさしぶりに負の感情がある。生きていたんだと思う。古傷は一生の持ち物、忘れても残る。