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片づけをした。記憶から滑落したものから捨てていける。今までは持ち物が与えられていたが、それももうおしまいで、自然に任せていくうちあとは減っていくばかりなのだろうと思ったりもする。ものを捨てるということは思い出す可能性を捨てるということで、忘れてしまうことを諦めている場合、そのひとつひとつは大きい決断のような気がしてしまう。

幼稚園とか、小学校の低学年とかにかいた色々な絵やら何やらの束が見せられて、母に、いらないものを選別してほしいと頼まれた。いらないもの。大昔の自分はもはや他人であるが、他人の中で唯一、私が所持している気分になっても許されるような特殊な他人で(本当はそれも良くないかもしれないけれど)、ひとつひとつを開いてみると、覚えがない分それなりに面白く思えるのだった。神様は青い球体で四方八方に毛を生やしていたり、火星のことを考えていたり、父と母が私の3倍くらいは大きかったり、今の3分の1くらいの年齢のときにそれよりも小さい頃を振り返る言葉であったり、そのどれもが今の私にはないものだから、何を捨てると言われても困る。捨てたら失ってしまう。だからほとんど選べず、ただいくつか、大人や周りの目を意識し始めたようなわかりやすさを備えたにこにこ顔と、課題で書いたのだろうレポートと、そういったものだけを傍に避けて選別を終えた。すぐには取り出せないところに置くけどいいかと言われたが、それはどこにあってもよかった。たまに取り出せる可能性があることが私にとっては重要で、それゆえに私の部屋からは物が減らないのだということも知っていて、それ以上に私の惰性により部屋は散らかったままであるということもわかっていながら、それでもどうにか片付けようと手を掲げた瞬間に途方に暮れてしまうのもいつものこと。