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マスな娯楽と相性が悪い、と思っていたけれど、どちらかというと苦手なのはマスとしての享受の仕方なのではないかと思うようになった。

ある選手がうまくいかなかったことを、なぜ人々が共通の話題として怒りあるいは悲しみ、取り沙汰するのかがわからなくて居心地の悪さに思考が軋む。そもそもこの疑問に筋が通っているのかもわからなくて困っている。なぜあなたが祈っているのか、なぜあなたが緊張しているのか、自分の半分を勝手に預けるようなそれは祈りと呼べばきれいだけれど、それはどういった感情なのか。その勝手なことが可能であるゆえに可能なのだ、架空の感情に移入するタイプの娯楽なのだと捉えるにはどうも、その自嘲が欠けているような気がするけれど、みんなそれを完璧に隠すから、私には人の気持ちがわからないから、見えないだけなのだろうか。どうして、勝つとか負けるとか、成功するとかしないとかに祈りを傾けることが可能なのだろうか。それは一連のことの中にたまたま存在する言語化可能な象徴であって、重力を預けるには何だかずれている気がするのは私がおかしいのだろうか。違う、うまく言えていない。そういうところでもありそういうところではないところに私の違和感があって、何なんだろう。圧倒的な他人であるから移入ができると思える人と、圧倒的な他人であるから圧倒的な他人としての距離感を、それとは何なのかと思ってしまうことの違いなのか。

個人として、ある作品に対して好きとか嫌いとか思うことについてはよくて、そういう話は対象がなんであれ楽しく思えることがわかってそれから、あなたはそれに対する何だと思ってのその姿勢なのですかということがわからないとき私にとってはおそろしいのかもしれないと最近はよく思う。みんなのことはよくわからなくて怖いし、わたしはあなたの話が聞きたい。