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体のどこかが音を立てて、それが犬の呻き声のように聞こえるけれど越してきてから一度も、犬の足がこの家の床を空を踏んだことはない。犬どころか四つ足の生き物も、と思ったところで、例外に思い至る。妹が幼稚園か保育園だったか、どこかの夏休みでほんの数日だけ預かることになって連れ帰ってきたモルモットのことを思い出す。名前も性別も忘れてしまったのでそれと呼ぶしかないそれが家の一角にスペースを持っていたとき、たまたまわたしの友達が遊びにきたのだった。そのとき親はどこかへ出掛けていて、妹はどうしていただろうか、友人がモルモットに近づいたか目を合わせたかしたとき、それは突然甲高い声で鳴いた。初めて聞く声だった。なにが起こったのかわからないまま、しばらく呆然としていた。しばらくしてそれはあっさりと鳴きやみ、それから二度とそのように声をあげることはなかった。当時はインターネットもさほど身近ではなかったから、調べようと思い至ることもなく、ただ不思議な出来事として、文字通り頭の片隅に仕舞い込まれることになった。

この先、少しずつ日々が退屈になれば、思い出すことの量も増えていくだろう。そのようにして過去を食い尽くしてしまえばそのとき、ようやく本当に孤独になってしまうような気がする。

ここ数日、朝をうまく起きられていない。

今日は現実的なことをした。具体的には、住民票の写しをとり、手違いがなければ春から必要になるはずの口座を作りに行った。頭がくらくらする。空気はいつの間にか晴れていても冷たく、木々も傾く日差しも金色に透き通っていて、嫌でも季節が回っていることを知らされる気分になる。星が回っていることまで気が回らない。味も色もない憂鬱がとろりと湧き出てくるのにいつでも私は正気のふりをする、ここでは中身を精査するよりも先に、人の形を保たなければならない。

体が冷える。手先や足先だけが冷たいのかと思いきや、浴室手前で服を脱ぐようなときに腕も脚も付け根に近いところからすっかり冷たくなっていることに気がついて笑ってしまう。勇気がない。全て返してしまう勇気がない。