0917

脚の不快感で目が覚める。天井にぴったりくっつけるようにして上げるとだいぶ和らぐので私は、脚の方にこそ枕があれば良いのにと思う。

 

演劇の動画を見た。

内容のことはいったん置いておくと、画角の端にはしゃがむような姿勢で着席している観客の後ろ姿が映っていて、つまり今画面越しに人の視線よりも高いところから眺めている映像を、本物の観客たちは見上げるようにしてみていたということになる。本物の観客?私は確かに偽物の観客だ、お金も払っていないしそこにはいなかった」そこにいなければ偽物である時代は終わりつつあるもしかしたらもう終わっている いないけれどあった視線を借りて見ている、カメラ越しでなければ白いシャツも人体も、光って溶けていきそうになったりしなかったはずだ、声がどこからしているのか、よくわかったはずだ、もしそこにいればすこし眠くなるようなとき、意識は自分がどう見ているかとどう見られうるかの二つに分離してその先端を睡魔に引きずり伸ばされているのかもしれない、そのどれもがない観客の立場は幸せかもしれない?

(ところで)自分にわからないところで人たちが笑うようなときに感じる疎外感のようなもの、そういえば自分が芝居をするときには最初の段階ではなるべく笑う箇所を見つけて作っていくようにと言われていた、難しかったけれど、笑いの共有が共犯意識になるのはどうしてだろう、きっと賢い人たちが正しい文章でそういうことも書いていると思うけれど。古典の授業のとき、有名な歌になぞらえて遊ぶくだりを読んで内輪ネタじゃんと思ってしまったこと。

この映像をこの映像の中で流れていた時間のことを私はきっと好きだなと思うけれど、ではなぜ、何がと聞かれれば答えられる気はしない。わかることなどひとつもないけれど、そもそもそれの何がいけなかったのか。大げさなことをいえば、世界にとっては無いものが私にとってはあるものだったりしたって良かったはずだ。

何かを思い出すような人の語り方がやっぱり好きだ。

 

ニュースを見れば重たい気分、また精神療法について書いてある本を開く。すぐに文字が追えなくなって妙に眠い。ずっと眠たい。