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コートをきれいに保つのはとても難しい。英文和訳の設問みたいな文になってしまったけど、これに本当に困っている。良いものを買って長く使うのがよいというのが親の教えで、それに従って数年使うつもりで(私にしては)きちんとお金を出してコートを買ったのだが、程なくして一定の良い服には一定のメンテナンスが必要であるという壁に行き当たった。必死で有象無象のインターネットでふがふがともがき、蒸気を当てたりブラシをかけたりしているけれどもあまり効果があるような気がしない。そもそも悪しき状態と良き状態の区別が実は私にはあまりつかないので、もしかすると良くないものを買って短く使う方が社会性は保たれるのかもしれない。環境にはかなり良くないし、人道的にも多分良くない場合が多い気がする。良くないものはよく買うというか基本的にはそこそこのものだけを使っているけど、ここにポジティブ性を見出すのはどうなんだろうということは考える。

言葉の処理能力が落ちている。特に聴覚で感知する言語情報は、聴覚で感知してから視覚的な処理を行う工程が必要で、かなり今できていない。どうしたらいいんだろう。耳で言葉を追うとか言葉から意味を組み立てるって意外と意識しないとできないということ、なんだって失ったときに気がつくこと。ただの音の模様に成り果てた言語情報は一様な目眩になって私の覚醒を無効にする。

青い鳥文庫の次にどこに行けばいいのかわからずライトノベルに傾倒した子どもだった。ここで近代なり現代の純文学に直行できた人が少なからずいると知って、その進路を得られたことを羨ましいと思う一方で、選択肢があったとしても当時の私は無視していただろうし、もしかすると無視したことを今の私が忘れているだけなのかもしれない。当時の私は大人が子どもに薦めようとするものをかなり拒否していたきらいがあり、だから伝記や歴史漫画を読まなかったように純文学に進む道はほとんどなかったと言って良いと思う。拒否していたそれらと同じ箱に「道徳」の授業が入っていたことから、この感情の大雑把な傾向がわかるような気がする。当時の私はかなり「いいこ」であった反面、大人に洗脳されたくないとも思っていた。画一的で道徳的で、偉いねと言われる方向に整えられた存在になりたくなかった。でもそんなふうな子どもの頃に想定していた大人のつまらなさ、画一的なさまは、大人が大人として見せていた姿からの類推であり、それは私の周りにいた大人が子どもに対してきちんと大人であろうとしてくれた結果なのではないかと今になって思う。それはかなりありがたいことでもあるはずだ。

今日見に行った舞台の最寄り駅が酷暑の頃に通っていたお客様先の最寄り駅で、ついた瞬間に思い出されるあの頃の感覚で全身ぼこぼこになった。舞台もお客様も悪いことをしていない。私がその業務に向かなすぎていただけだ…