0402

並んだベビーカーを見て、演劇みたいだと思ったこと。崩れ落ちる劇場、比喩を失った戦況が刻々と移り変わるなかで、わたしはすこし朝寝坊をする。

無事に2年目のシャカイジンになってしまった。周りを見るにおそらくわたしは幸運にまもられていた。週末にしか外に出ないから、桜は満開を目撃することなく緑へと移り変わりつつあって、この一年で考えたことは、子どもらしい子どもが実はそんなにいないように大人になった大人もあんまりいないのではないか、どちらも理想郷として設定されているだけで、どちらにも行き着けずぐにゃぐにゃと呼吸をしているばかりなのではないか、そう思うことは失礼なのだろうか。意思疎通が不可能な世界で、背伸びをしていますということをもっと認めたらいいような気がするのに、まあ難しいのだろうけれど、仕方がないことに従うことを誇らしげに語られるのはなんだかもやもやする。

演劇の準備は少しずつ進んでいる。楽しいけれどしんどくもあり、前にも書いたようにそれはとても健やかなことだと思う。学生の頃とは違うのは、もう誰にもしんどいと言えないことだと思った。だって好きでやっているのだし、それも織り込んで責任を負っているのだし。ちゃんと楽しい、ちゃんと頑張れる、それとしんどいは両立するのに、しんどいだけが口に出せなくなっていて、そのことに気づくとき、孤立無援という言葉を思い出す。(本当に色々気遣ってもらっているので団体も個人も何も悪くない、と添えておかなければならない気がする)まだ後輩の卒業公演を見られていなくて、でも自分達が作ったものに自負を持てること、自分たちが作ったものを愛せることはとても格好いいと思う。

友達としゃべるとき、私はとても生きていることを思い出す。何かを考えたり、話したり、友達のそういうことを聞いたり、そういうことが本当は許されていたことを思い出す。それで明日への憂鬱が重たくなる。それでも思い出さなければよかったはずないのだと、思い続けていたいのだけれど、それすら維持できるか危ぶまなければならない明日が来るのはいつも怖い。