0120

フリーダイヤルということばが思い出せなかった。

あまり関係ないけれど、会社から貸与してもらっている携帯にだけやたらと迷惑メールがくる。頻出ワードは救済、手渡し、会長、金運、今だけ、それからランク外だけれど福祉という言葉まで出てきて、メール全体の粗雑さによって印象はかなり軽減されるものの、あれらの思惑を思うとかなりの醜悪さを内包しているような気がする。困窮し、判断力が低下するほど疲弊した人を、あるいはとても人を信じられる人を、狙うのが最も効率が良いということが当たり前に共有されていて、もしかしたら人の手さえ介さずに粗雑に大量生産されていく文面の山。それを作っている人は、届けようとしている相手とどのような距離にあるのだろう。もっと関係ないけれど、「しゃきゅう」と打つとノータイムで「砂丘」と変換されて、それ以外の候補が全く出てこなかった。そうも読むことを調べて初めて知った。

発話の抑揚を間違えたと思うことがかなりよくある。さっきの語尾はもう少し上げるつもりだったのにとか、今のなぜか下げてしまったせいで攻撃的なニュアンスを持ってしまっていたのではないかとか、そういうことを思う。抑揚の定式みたいなものが体に入っていない。そしてどうにか頭で判断したりしなかったりできなかったりしているのだが、それに加えて喉の筋肉とかそういう、かなり器官的な能力の低さがある。ミスを恐れると抑揚はさらに平坦になり、平坦な抑揚で少量しかしゃべらないのでさらに慣れも判断力も喉の筋肉も衰えていく。悪循環。

とはいえ、言い間違いという言葉があるくらいなのだから、抑揚の間違いも生活においては似たような場所にあるものとして広く発生していて、認識もされているだろうと思ってツイッターで簡単なアンケートを取り始めた。それから少しして、他人のそれにはみんな気づいているのかということも気になって、こちらもアンケートを取り始めた。もちろん少数人の生活実感の話だけを聞いているのでここから人類全体に話を広げることはできないしそういうつもりもないのだけれど、どういう結果になるのか楽しみに思う。私の場合は自分の抑揚間違いはよく気づくけれど他の人のそれについてはほとんど気づいたことがないと思う。それはつまり、会話の場において自分にだけ抑揚違いの可能性を許容しているということで、かなりアンフェアだなと思う。私が受け取ったのと全く違う意図を載せようとしていたかもしれないのに、私が受け取るのは私が受け取れたものだけで、それ以外の可能性を常には考えることができていないのだから。

言い間違いと同じように抑揚違いが生活実感としてあるものだとして、これは表現媒体では扱いにくい間違いなのではないかと思う。言い間違いと違って無意識の反映のような意味の付加が望めないというのも理由のひとつにはあるのだろうか。ただし小説は例外で、これは地の文が補足すれば足りると思う。演劇も、現代口語演劇の系譜から先鋭化されたものでは可能かもしれない。どうだろう。どうなんだろう。

それはそれとしてさらに怖いのが、自分が扱ったと思えた抑揚の幅のだいたいいつも3分の1くらいの振幅しか私の発話には基本的に表出しないこと。そもそも発言内容の精査もいつも甘すぎるので、総合的にかなり問題がありそう。

さらに別の話をするが、なんとなくウェブで記事やコラムを読んでいるようなとき、私は圧倒的に考えていない側だと思わされる。そもそも「側」とか言っている上にたったふたつに分割されている世界像は考えていないことの証左そのものでもある。考える量と言語化の量は必ずしも同じものではないと思っている。言語以外の体系による思考は世界にたくさんあると思う。けれども私は思考のほとんどを言語に頼っていて、その言語もほとんど中身を持たないとすると、それはもう何も考えていないことになるのではないかと思う。きょうみたいに言葉を使ってみようとするときも、いつも空虚な体積で小さな円をなぞり続けているにすぎない。あるいはそれが自分の体に見合ったサイズなのかもしれない。

真後ろの席に真っ赤なニットを着た女性がいて、思わず見てしまった。鮮やかな色、一帯の静寂、視線が光となる人がいる。