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「大丈夫ですか、聞こえてますか(オンライン会議の発言者)」「だって名前も顔も変えちゃったら私は残らないわけじゃん(下北沢駅周辺で友達と喋っていたと思われる女の子)」

下北沢は気がついたら歩きにくい街になっていて、多分その方が「正しい」んだろう、高校時代に何度も道に迷ったあの決して広くない街は、いつの間にか派手な明かりと強固な建造物でたくさん、人もずっとたくさん、歩いていて落ち込むようになった、だからもう前のようには歩けない。昔だって別に自分にとってはよその街だったけれど、何を脅威に感じることもなく道に迷って困っていることができた。

祖父母に会った。実際的にはそうもいかないのかもしれないけれど見かけ上は変わらずに元気で安心した。色々なところに旅行に行ったり、朝の体操に行ったりしているらしい。それから従姉妹が妊娠したらしい。正しい人生をしている。前より落ち込まなくなった。別の世界の話をしている。祖父母を安心させる役割を担ってくれてどうもありがとうございます。別に責められてもいいけれど、そこへの意志が欠けたことを私は気にしないでいようと決めている。

言葉を駆使することと賢さはあまり関係がないということを考えている。言語を駆使できる人の中に賢い人はもちろんいるけど。賢さは言語量を基準に測られることが多いような気がするが、例えばその他の思考形式(感覚など)に秀でていたときは勘が良い、センスがいい、神経が良い、感性が鋭いなど別の言葉で表現され、でもそれはその思考形式において賢いということに近いんじゃないかと思う。私は言葉が自分の能力に対して過剰だからこそ、小さい頃は実態より賢く見えている面があったと思う。今は普通に愚かに見えるだろうし、ある面では別にそれで良いと思っており、別の面で愚かなことを悲しいとも思っており、社会的には前者を重視して埋めるべきだとされているのだろうということも容易に想像がつく。