0416

学生劇団時代と今の違い。どこまでも自分を削ってよかったのに対して、健康でなければいけなくなった、健康であるとみせることが気遣いの一部になった。どちらが健全とかないと思う。とにかく元気なふりをする、前向きなふりで焦りを誤魔化す、全部腹の底で食べていて、吐きそう。それでも楽しいのでやっている。楽しいとは違うのか。でもとても必要だと思う。先日友人に会って、私が、何もできなくて結局無能で演劇なんか好きじゃなかったってわかったはずの私が、演劇をまだ続けていることはとても卑しいことなのではないか、ととても考えて、悲しくなったけれど、でも私は、私は彼らと違って過程として演劇を選んだわけじゃなく、元からそうだった、だから彼らを見て得た物差しなんか意味はないのだと、言い聞かせていないと消えたくなる。

カルピスサワーが最近は好きだ。カルピスの味で思い出すのは、小さい頃に通っていたスイミングスクールの、低学年のクラスが終わる午後三時とか、四時の青色の時間の空気であることに最近気がついた。出入り口のあたりに設置された自動販売機で小さいペットボトルを1本買ってもらえることがあって、カルピスを買ってもらっていた。そればかりじゃなかったはずだけれど、なんとなくカルピスの印象だけが残っている。何もないのは今と同じだけれど、まだ何かあると信じていた頃の、眩しさ、子供は決して純粋な存在ではなかったけれど、それでも世界が真剣だった頃に呼吸していた青い空気をどこかで思い出しながら血中にアルコールが混ざっていくとき、その冒涜的というには淡すぎる自虐的な感じがとてもしっくりくる。なのでカルピスサワーを飲んでいる。毎日悲しい。また昔の話をしてしまって自己嫌悪している。

目の前にないことが想像できない。欠陥だと思う。動けないのに目の前の手触りに強烈な違和感があるとき、何もできなくなる。穏やかに生きていきたいのに、どうして無理なのだろう、あるいは、無理な気がするのだろう。