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向こう側のホームに照っている夕陽がいっそ青く見えるほどに赤くて途方に暮れた。

乗り込んだ電車は文字通りに満員で、どう体を捻っても違う体と当たってしまうことがただただ不快だった。窓の外には大きな構造物と広告ばかりが見えて、だから都心は不愉快だと思う。

 

夕方から、演劇のワークショップに行った。ふと思ったのだが、演劇のワークショップと呼ばれるものには大きく二つの要素があって、舞台上で発生する物事の要素を体験するものと、具体的な演技指導、今回はおよそ後者に寄ったものだったようだった。とはいえ私が参加できるということは初心者にも門戸が開かれているということであり、学生劇団の中でさえ一介の無能だった私にも、ちゃんと取り組む時間やフィードバックをいただくことができて、またほかの人についても色々に見ることができて、かなり面白く時間を過ごすことができた。

 

参加者はピンキリで、つまり力のあるひともそれなりの人数いたわけで、彼らの実演とそれに対する指摘、指摘に対する反応、それら一連の気迫を見て、ふっと、あれは一生たどり着けない場所なのだという思いが目を開いた。

やはり羨ましいと思った。芝居にではなかったかもしれない。そこにエネルギーをきっちり注ぎ込み使いこなそうとできる潔さや、人と対峙できる柔軟さ、私はあんなに一気に疲れることができない。引きずられることができない。どちらもずっと望んでいたことで、ずっと叶わなかったことだった。

それどころか、受け取ることもできなかった。目の前で人が何かを言っている、圧倒的なエネルギーをかけて何事かをしている、そのことが全く響かない自分に気がついて、私は向こう側にはいけない、そんな確信がことりと体の奥に落ちた。少しはどこかで連続しているような気がしていて、というよりもそうであってほしいと願っていて、けれども目の前で起こっていることとの果てしない距離よりも彼我のあいだにそびえ立つ分厚い壁の手触りがわかった気がして、あ、と思ってしまった。

もし。もし私が今この状態で例えば中学生だったなら、まだ間に合ったのかもしれない。けれどもそんな年齢はとうに過ぎてしまったから期待するなら来世にする、こんなになんの努力も足りていないのに言っていいことではないのだろうけれど。役者になりたかったな、と思った。生業にしたいという意味ではないしそう思ったことは一度もない、そうではなく、そのように人に関われる何かに、そのように自分のエネルギーを素直に使える何かに届きたかった。帰りの電車で、泣きたいような気持ちになった。けれども泣くことはなかった、それだけで答えだった。

おそらく、これで潔く辞めてしまえる自分ではまだない。何か大きな諦めを腹のなかに持ったままで、きっとまた一瞬の奇跡と幻覚を期待してしまうと思う。それでも諦めを得たことはなんとなく大きいことのように思えた。自分の墓石をひとつひとつ拾って歩いているような、そんな時間を暮らしている。