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ひとの訃報があるたびに、わたしは世界から取り残される。いまだにどういう気持ちになるべきで、なれば良いのかがわからずに沈黙するしかなくなる。知っている人が悲しんでいるから、かなしい。生きている人が悲しんでいるのがわかるから、泣きたい気持ちにもなる。けれどもそれは、生者の間の中だけで完結することであるべきだという思いがある。喜ぶべきことでないのは確かにせよ、悲しんで良いことだともわたしにはどうしても思えない。だから黙っている。喪の作業は生きている人だけがするものだ。

それとは関係なく、先日得た賞与を手に私は喪服を買いに行った。正確に言えば、喪服と兼用できるような黒いスーツを買うと良いと母から聞いたのでそれを買いに行ったのだけれど、お店の人に尋ねると、そういう使い方は想定されていないとのことだった。売るための文句なのか、正論なのか区別がつかず、わたしは早々に平べったい量販店を後にしてしまった。外はよく晴れていて、空気は冷たく、足取りの重さは懐かしい憂鬱を湛えてわたしを公園のベンチに落とす。ずっと昔の通学路にあったのに一度も足を踏み入れなかった砂の上はずっと目にしていた通りの乾きを維持、日溜まりで、存在をしていると、少しだけ体があることを思い出せるような気がした。知らない人が行き交う。車が通り過ぎていく。なんとなく、また近所のコーヒー屋さんに行く。ここしばらくの週末は必ず一度足を運んでいるような気がする。豆による違いはわかったりわからなかったりするけれど、いい香りがするのでそれで満足する。