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救いようのない人、というものは存在してしまっている、そのことに最近気づきつつあって、とても恐ろしいことだと思っている。
きっと誰かが手を貸さなければそこから抜け出せないのに、手を差し伸べるには重たすぎて、もう誰もが見放すしか無くなってしまう状態の人。その人のことをあなたはもう見放さなければいけない、あなたはその人のために生きてるわけではないのだから の 積み重ねがその人を静かに追い込んでいき、その理由がその人自身にある以上悪循環、袋小路、抜け出せなくなってしまって、苦しいままでいる みたいな(幸せになれない、と軽率にも書こうとしたけれど、幸せの定義づけが困難すぎた 駄目だった)
私もそうなのかもしれない。だけれどもう、きっと誰も教えてくれない。「もう」なのか「初めからそうだった」のかはわからないけれど。
抜け出すためには外がどちらにあるのかを知る必要がある、多分。でも案外、どこを目指すべきなのかということがわからなかったりする。
たとえば博愛、が素晴らしいのかはわからない。視野が広いことが素晴らしいのかもわからない。ただ優しくあることが良いことであるとも、深く思考することが、光をもたらすとも思わない。
ただ、誰も嬉しくないのに自己や他者を損ない続けることは、きっと目指すべき外からは遠いのだろうと思う。(嬉しい場合はまた別の話になるので割愛。)
(「目指す”べき”」のべき、とか、抜け出すことこそ善であることが前提になってしまっていてその根拠が一個も示せていないこととか、そのあたりの暴力性は認識しておかないといけないと思う あとあとでいいから埋め立てられるようにならないといけないと思う)
事実は小説よりも奇なり、とはよく聞くけれど、わざわざ言及されること自体が本当はおかしいくらいに、事実の方が恐ろしい、ということを、うまく宥めながら大人たちは世界をやってきたのではないか、というようなことを思った。
人の一生重たすぎて自分にはやっていけない、日々にすり替えて死ぬまで誤魔化していくしかない、と思う 多分そうも言っていられなくなる日がいつか来てしまうのだとも思う
自分に対してくだらない、という言葉をそこそこの質量を持たせて向けられるようになるまでに、随分と長い時間を使ってしまったように思う。