0326

日記を書きます。自分の文法に従う時間が持てることは個人であるために必要だと思った、つまり体が必要なのだと思った、体が失われると思考しか無くなる、思考することが弱い場合はそのまま透明になってしまう、その危険といつの隣り合わせ、このように私は文法を失いつつある。同じところを空転ばかりしているような気がする。背後の時間が増えれば増えるだけ失敗の数も増えて、頭が破裂しそうになる。この週末は天気が悪かった。葉桜までのRTAみたいに白が飽和を一瞬で通り過ぎていくのが目の奥に優しかった、簡単にこえられそうな柵の向こうの桜が結局いちばん綺麗に見えるのだろうと思って、その程度の感傷が馬鹿馬鹿しいだろうか。土曜日は用事をひとつと演劇をふたつみた、日曜日はなかなか起きられなかった。外は雨が降っていた。(中は雨は降っていなかった。)日常会話に支障が出るほど声量が落ちており、元々狭い音域もとうとう日常会話を阻み始めたので、なるべく週一で声を出しに行っている。壁越しの音楽を片耳にかけながら、借りてきた詩を今日も声に出してみたりもする。そうする間、自分は言葉を失っているとも言えるが、体を得ているとも言える。不自由な体…