人のいない古いホテルを走り回る夢を見た気がする。どこを曲がっても薄暗くて、非常階段のエリアはくすんで青くて、窓もなくそこから外に出ることもできなかった。これはあまり心当たりのない夢だ。
家族が見ているテレビの中で、スポーツ選手が号泣していた。何を賭けたらあのような巨大な感情に結実されるのだろうとその一生到達などできない場所への途方もなさを思う。一般的な会社員は、失敗してそこまでの感情に至るよりも前に病気になる。そもそも気持ちをかける前に労働は駆動していて、成功が目的ではないことがままある。だから比較することはできない。ともかく、選手が号泣しているのを見た。それをたくさんのカメラが囲んでいて、人の感情をそうやって横取りすることの野蛮さを思った。けれども人が取り囲むことによってその感情は社会的に価値を創出されているのだというのは詭弁だろうか、ともかく、号泣しているのを見たべつの人間が悲壮な顔をしているのを見た。それを見て、その伝播に無批判でいることは悪くないことなのだろうか、わからなくなった。
帰り道はすこしだけ歩きやすくて遠回りをした。稽古期間中、なにかが昂ったままぐるぐると歩き回ってから帰ったこともあったことを思い出す。落ち着いてやろうと思っていたし、落ち着いてやっているつもりだったけど、全然そんなことなかったんじゃないかと後になってようやく思う。だけど全員と適切に距離を置きながら参加するという目標は達成できた。それはよかったと思う。
悔しく思う前に結構多くのものを相対化した。無益な争いに巻き込まれずにすんで、穏やかに生きられるようになった。昔は負けず嫌いな子どもだった、と言われることも減ってきた。でも自己学習ではだめで、塾に行ったら効果があるタイプの子供ではあった。自分に必要だったのは競争だったのか、依存先だったのかはもうわからない。
悲しい?悲しくない。不安なだけだ。期限を失った体がふらふらと定まらないままでいるだけだ。