0407

休日には計画したことの3割しかできないって本当だったなっていつも新鮮に思う。しなければいけないことがたくさんあった。もう間に合わないとわかっているけど試験の勉強はしたかったし、部屋は多少片付けないといけなかったし、クリーニングを取りに行きたかったし、金曜までに提出するはずだったものを今日こそ終わらせて出さなければならなかったし、今日までに提出するものも終わらせなければならなかった。台本を読んで考えたいことがたくさんあったし、そろそろ咲いているはずの桜も見たかった。

少し勉強をしてからクリーニングを取るのを言い訳に外に出た。近所の桜には人が集まっていて、私が何か化け物だったら桜の姿になるだろうなと思った。声をかけられて写真を頼まれて撮る、社交辞令でも喜んでもらえて嬉しかった。桜の含む発するのではない光、それは半分月に似ているかもしれない。

うっかり社給携帯を見たら明日から平日だと思って緊張が始まりやがて止まらなくなって、それで疲れたのか念のため飲んだ頓服の効果なのか(漢方なのでそんなはずはないと思う)、変な時間に一度寝てしまって、この時間になってようやく提出物を揃えた。冷静に考えるとタスク量が私にしては多い。高校の頃周りにいた元気な人たちのような感じになっていはしないか。それでも半分は望んで持っているものだから、それは辛くない。

0406

あまりにもあっさりと目が覚めてしまい寝不足、しなければならない勉強はなかなか進まない。だけど稽古に行くのは単純にわたしの楽しさの指標優先による選択。他人には言葉や思考の体系があるところに一辺倒な言葉しか持ち合わせていないとき、わたしはひどく無力で、そういうことを考えることが多い。

0405

昨日の日記って書き損ねたんだったっけ。そうか、そうだった。仕事に対する私の感覚と他所からの期待値がぎちぎちに捩れていて、これはいつか破綻するだろう、だって私には、健康や生活やその他の趣味を投げ打つつもりは全くない。できることなら、ただ穏やかに過ごしたい。

近所の桜が咲いている。白が膨らむ、そこだけ無限の広さが泡のように生起しては消えていくような感じが、多幸感すら伴わないでただあるものとして発生するそのことが、私にとっては明るさに似た印象としてやってくる。ずっと考えている。私は桜が怖いだろうか。

 

0402

桜が咲き始めている。まだコートを着ている自分をぎりぎり許している。眠い日だった。朝から気分だけが沈んでいた。日向のベンチでおにぎりをふたつ食べたら食べ過ぎの感じになった。誰の目にもつかない駐車場をぐるぐると歩き回る。

返信をひとつ返すのに1、2時間かかるのをもしかするとわたしは一生やめられなくて、仕方ないのかもしれないと思った。思ったけど、返信を考えている間の時間にしていることを普通に大事にしてもいいんじゃないかとも思った。

0401

目が覚めて、奇妙な夢になんだかちょっと傷ついていた。細かいところはさておいて大筋にはなくはないくらいのリアリティがあって、関連する人に次に会ったらちょっと夢に影響された態度をとってしまうのじゃないかと思った。思っている。

私は誰かの夢に出たことがあるだろうか。夢の中の私の振る舞いにより誰かの中の私像が少し変わったことはあるだろうか。

世間は入社式の波、わたしは無関係に部屋でPCに向かえる。発話が全てからまわっていく感覚があり、ここでいう発話とはその中身よりもむしろ発音の方に寄っている。普通に言えれば普通に空回らない内容がなぜかうまくいえないことばかりだった。後輩の話を聞かせてもらって、健康に働くって何なんだろう、可能なことなんだろうか、そうであってくれなければ困る、そういうことを考える。

0331

3月の終わり、うららかを通り越しそうな太陽。クリーニング屋の行列を乗り越えて今日も電車に乗った。向かう先はいつもの駅、すっかりいつもになってしまった駅で降りて、稽古場に行った。いろいろなことがあったので、別のメモに書いた。そのいろいろなこと以外で話したことが、頭にぽつぽつと残っていて、なんとなくまだぐるぐると回り続けている。帰りの電車で講師の方とお話しできる機会があって、なんとなく考えを整理させてもらえてとてもありがたかった。

0330

すでに暑かった。一足飛ばしの軽装で外に出て、乗ったことのない電車に30分揺られて少し歩いて展示を見た。卒論を書くときに少し読んだ本に関連する企画だったので、自分への筋を通そうということで出かけたのだが、実際に中に入ってみると絵を見るということがどういうことなのかいまだによくわからないことを思い出す。絵を見ることと川の流れを眺めていることの違いが私にあるのだろうか。そういう疑いを常に持ちつつ、ぼんやり眺めたり何かを思ったり思わなかったりした。親御さんに連れられてきたらしい小学生くらいの子どもを見かけて、小学生のときに課題で行った美術館で見た少し怖い青黒い絵を前にして、これを良いと思わないといけないんだ、これに何か強い印象を受けないといけないんだと思って頑張ったことをなんとなく思い出した。頑張ったところでどうにもなりはしなかったと思う。

帰り道をまたぼんやり歩きながら、私は自分の体のことを忘れずにあの位置まで歩き続けることができるだろうかみたいなことをやっていた。やりようによってはやれたのだが、例えば何かに目を向けるとき、思考に閉じこもりはしないのだけど、体が薄くなって目ばかりになっているような感じがして、それは体を忘れていないに数えて良いのだろうか。つまり並立させる必要があるということだが、それはどのように可能?(今更?)

日が暮れかけてきた頃に外の椅子でぼんやりしていたら、小さい子どもが目の前にやってきてじっとこちらを見ていた。何か言いたいことがあるのかと思い見返すと、足元の穴に何かがぴょんと入っていったのだとその子は言った。私の角度からはそれは見えなかったが、しきりにそのことを話すので立ち上がって彼の視線の先を見ると穴もないように見えた。その子は靴裏で「穴」を何度か擦ると、もう出てこないように埋めたといった。なんとなくあら、と言ったが、本当に言うべきはありがとうだったと後になって悔やんだ。それからその子は少し遠くにある柵に軽く登って向こう側を見た後、おそらく母親であろう女性のところに走っていった。なんだったんだろう。