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大学時代の先輩に誘ってもらって、田名網敬一展を見に行った。携帯がまだ元に戻らないので、調べた切符を買って電車に乗り、待ち合わせ場所に30分前に着いて、人が流れるのをずっと見ていた。いい天気だった。展示は彩度を司る部分がどうにかなりそうなくらいに彩度で、普段働いていない箇所が処理するような情報量が莫大で、逆に何か蘇生した気がした。話しながら見られたのもよかった。どこまで意図的にあの構成にしていたのかはわからないが、ある解説の現在形によってより生々しく見える、描き続けて生きる人の迫力があったように思う。その後カフェにいって、コーヒーとお菓子をご馳走になり、近頃のことなどを話した。先輩は生活を文化的に過ごすことに長けていると思った。遠くにも気兼ねなく行けるし、ふと思いついたように絵を描いたり能動的な意識で歩いたりもする。私はというと、近頃の何もできていなさを説明するのに、どうしても近頃のどうしようもないあれこれを話してしまうほかなく、聞いてもらっていいですかと一言断ればよかったと後から後悔する始末だった。先輩は優しかった。電車に乗って一駅で別れ、乗り継いで帰る途中、知らない男が世界はばらばらであるが故に同じものを見せるという営為についてどうのこうのを知らない女に話していた。

使用済み63.71GB/64GB、うちiOS 10.32GB、システムデータ31.32GB

そうだあのね めっちゃ書き忘れてたんだけど スマホが動かないことで生まれる生活の変化の一つは、記録できないことだなと思った 写真も撮れない、メモも取れない だから覚えていたかったということしか覚えていないことが増える、だんだん記録するとき生まれるチャプターの切れ目がなくなって時間がどんどんシームレスになる どっちがいいとかない 忘れたくなかったこともたくさんあったはずだったから