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結局4時くらいに寝た。7時半にあまりにもすがすがしく目が覚めて爽快感、こんなに幸せだったならこちらに動いてしばらくの憂鬱も訳ないなと思った。朝にこんなに嬉しかったことはいつ以来だろう。すこし思い出せるいくつかの日のこと、走馬灯を駆け抜ける風がちっとも痛くない。

早速皐月の本領発揮とばかりに暑い一日だった。左足の痛みのために接骨院に2回目、忘れられていく朝の色、外に出れば強い日差しで肌が痛い。季節の変わり目、急に空気の形が見えてしまうこのころのかなしさがかなしいけれど嫌いじゃなくて、過ぎていく時間の残像が形を得ては溶けていくような錯覚、それはわたしも同じこと、ほの明るくてかなしい揺らぎは雨垂れがするように肺の壁をつたってしとしとと降り積もっていき、それも気がつかないうちに消えてしまう。呼吸する生きものでよかったなと思える。歩道橋の上はまっすぐに太陽の標的になる、息を吸って階段を駆け下りる。

薄暗くて涼しい待合室の時間は静かに置かれている時間、診察券を出して椅子に座る。常連じゃないからなかなか名前を呼ばれなくて、また非常事態宣言のアナウンスが聞こえる。録音をする。やっと通されたベッド、施術のために仕切りのカーテンを引かれると緑の視界、ずっと遠くになってしまった保健室のことを思い出す。ここにはない、大きな窓、吹き抜ける風。

ここにこんなものがあったことを知らなかった、という話を聞く。もしかしたらなかったのかもしれない。変わるものと変わっているものしか見えないし(すべてを認識していたら情報過多で死んでしまう気がする、認知科学でとっくのむかしに解明されていることのような気がする)、そんなものなのかもしれないなと思う。言語の理解に差異の概念が持ち込まれた切実さを、まったく間違った実感で納得する。記憶は曖昧だけれど、「風景認知症」というたとえを思い出す。その話を友人にして、大袈裟じゃないかと言われてもののたとえだよと答えた夜道を思い出す。